最近のジャズサックス(サクソフォン)の世界は、以前にも増して、より鮮明にトレンドが定まってきたように思えます。テナーサックスの場合はジョンコルトレーン、アルトサックスの場合はキャノンボールアダレイ、それぞれをお手本とする傾向がさらに強まっているようなのです。
ジャズ理論の土台に
確かに、コルトレーン、キャノンボール共にそのプレイは、大変に魅力的なものでした。彼らの没後、現代にいたるまで、ジャズ演奏の習得を目指す際のお手本として、取って代わるだけの魅力を放つプレイヤーが出現していないからこそ、今もお手本、目標となる存在として君臨しているのは事実でしょう。
しかも、特にコルトレーンの場合は、その即興演奏、アドリブスタイルが、後に理論的に分析しやすいシステムに基づいていたことも、お手本として重宝される理由でしょう。実際、コルトレーンのスタイルを土台にすると、「このコード、和音にこのスケールを・・」といったように、システマティックに音遣いを当てはめることが、たいへん容易になります。加えて、そのように解説、指導することが可能になったのは、ジャズ教育の歴史上大きな発展と言えます。
恐らくコルトレーン本人は、そこまで論理的に音を選んでいたわけではないでしょう。他のアドリブプレイヤーたちと同様、直観的な即興音もたくさんあったはずです。それでも、彼が即興演奏する際の音遣いのシステム、考え方、スタイルが、後進の学習者にとって、システマティックに体系化して把握することが極めて容易であり、それを応用してさらに複雑に発展することが可能であった事から、現代ジャズのお手本とされたのです。その意味でコルトレーンの現代ジャズ界への功績は計り知れないものがあります。
ジャズの画一化が進む
その一方で、コルトレーンスタイルの理論化、体系化が確立し、ジャズ教育の世界で広く用いられるようになった結果、好ましからざる影響も出ました。本来ジャズは、即興の音楽、個性、自己表現の音楽だったはずなのに、同一の理論に基づいてジャズ教育を施した結果、皆のプレイが似てきてしまったのです。私、鈴木学自身、この20年間にデビューした奏者のプレイを、全て聴き分ける自信はありません。
例えば、1940~50年代辺り、ジャズ黄金期に活躍したテナーサックス奏者の音であれば、ほとんどの人は簡単に聴き分けることができます。例えば、コルトレーンとソニー・ロリンズ、スタン・ゲッツ、このあたりの奏者の音色、フレージングは極めて特徴的ですから、少々ジャズを聴いた経験のある方ならば、誰のプレイか聴き分けることは実に簡単でしょう。しかしながら、最近の奏者に関しては、リスナーはもちろん、プレイヤーでも完全に聴き分けることは困難だと思います。
「誰の演奏を聞いても同じように聞こえる」、少なくともこれがジャズリスナーにとって好ましい状況のはずはありません。同じにしか聞こえないのだったら、わざわざ何人かの奏者を聞きに出かける意味はなくなってしまいます。つまり、リスナーさんがジャズクラブ、ライブハウスに足を運ばなくなってしまいます。ジャズの世界にとって、これは大変に切実な問題です。
そういった意味から、そろそろジャズ、ジャズサックスの世界は変わらなければいけません。もっと多様な価値観を持った奏者が出現すべきです。前回のブログでも書きましたが、ジャズはもっと、今までとは異なる方向性を見出すべきなのです。今年はコルトレーンの没後50年。ジャズサックスの取り組む皆様、そろそろ「脱コルトレーン」しませんか?